生きがい

■生産的活動

過去にも生産的活動について書いたが、改めてここに記す。
私の言う「生産的活動」とは、①創造性、②オリジナル性を意味する。

①の創造性は「無」から「有」を生み出すこと。
それは知的産物でも物理的産物でも。

社会人2年目になって日々の仕事とは、毎日が同じ作業である。スコップで同じ穴を、何度も何度も掘る作業。いい加減飽きてもくるし、成長していないと感じる自分に苛立ちさえ覚える。ルーチンワークを否定するわけではないが、作業としてはクリエイティブではない。与えられた仕事をいかに効率良く、正確に、早く仕上げるか、ということが重要になってくる。

大量生産システムが社会にもたらした恩恵など微塵もない現実を目の辺りにして失望し、意味をそこに見出せない。タスクをこなすだけの日常に、どうして生きている実感など感じることが出来るだろうか。私はできない。

創造性という言葉さえ、現代では死後になっているような気がする。戦後の日本が復興して60年近くが経つが、復興を支えた「ものづくり」の日本技術に今日になって限界が来ているのではないか。IT産業という分野が盛んだと各メディアは報じているが、IT産業でさえクリエイティブというよりアレンジする方向へシフトしつつあるのではないか。

アレンジとは、目の前にある資源をさまざまに組み合わせる活動だと思う。そして今後は、ありふれた物資をいかに組み合わせ、そのバリエーションを提供できるかが社会のステータスになると感じている。

つまり、この世で初めて誕生するような物はほとんど出尽くした為に、創造する必要性がなくなってしまったのではないかと思うのである。

もしこれが事実だとして、私はこれをどう受け止めればよいのか。ありのままとして受け入れたとしても、社会全体が脱創造活動を主体とすれば、アレンジとルーチンワークの日々である。私にはそれが耐え難く、生きている実感がしない。

②のオリジナル性とは、唯一無二かつ独創であるということである。他の誰でもなく、創造者が存在したからこそ生み出された物の価値こそが生きていることの証であり、生を受けた意味であると私は思っている。個性と同じ意味かもしれない。

個性ある創造力を人間はみな持っていると信じているし、私はそれを存分に発揮して生きていきたいのだ。そのツールとして、ブログを書いている。この文章は他の誰でもなく、私個人が生み出したのだから。

これから、どれだけ自分に生産的活動が出来るだろうか。